グループというもの その3

過去の文章第3弾です。

 

グループのことを書いたのはとりあえずこれぐらいのはず。

ああ、いい体験をしていたんだなあ…と我ながら。

こんな長文はきっともうなかなか書けないだろうなあ。

 

……

「『私』へのいたわりとしてのグループ・春~人生が喜びとなるように~」感想

 


 2011年4月29日から5月2日まで、「『私』へのいたわりとしてのグループ・春~人生が喜びとなるように~」という3泊4日のエンカウンターグループに参加しました。

会場の「福岡黙想の家」というのは、カトリックの修道院に併設された施設で、かなり広大な敷地内には、森や池もあり、自然を感じながらの散歩や、室内に居ても、窓から風に吹かれている新緑の木々を楽しめる、静かでとても素敵な場所でした。

 

申し込み時の参加動機としては、普段人と話す時、早くたくさんしゃべる傾向にあり、特にグループでその傾向が出た時には、それを我ながら荒っぽく感じたりしていたので、今回は、ゆっくりじっくりと自分の実感に触れて、それに付き合いながら発言をしたり聴いたり、人と丁寧に接したいということがありました。


それから、日程が近くなってきた頃には、自分が、今後の生き方について大きな変化を希望し、ほぼ決断しかけていたので、その「後押し」というか、何かヒントがあれば…という考えもありました。


また、直前の頃には、仕事で色々な出来事があり、自分が、心というか感情に“フタ”をしている気がしており、とにかく、EGまで何とか持ちこたえるぞという気持ちで過ごし、できればそれに光が見えればいいのにという期待等、様々な思いを持ちながら当日を迎えました。

 


【セッションの経過~自分の感情を中心に】


 まず、初日のセッションで、少しずつ話が出始めている時に既に、メンバーへの違和感がないというか、大丈夫だろうなという気持ちと、一人一人の背後にある深さを感じられて、この期間を共に過ごし、知り合っていくことがとても楽しみな気持ちになっていました。単に「気が合うだろう」という感じではなく、そういったことには関係なく、一人一人ときちんと出会えそうな、このグループの一人一人がかけがえなく思えるようになるだろうなという予感のようなものだったように思います。その感じは、より鮮明になりこそすれ、結局最後まで変わることがありませんでした。


これまで参加したグループに、特に違和感を覚えたことはなかったけれど、今回、何故敢えてそう感じたのかはよくわかりません。思い返すと、最初で緊張して、それぞれがそんなに話していないものの、何か、皆さんが自分にまっすぐな感じ、まっすぐで居たい感じがあったのかなあと思います。

 

 計8セッションの間には、感情や、思考の色々な波がありました。

自分の居方や、気持ちの出し具合に試行錯誤な時期、自分の、自覚していなかった気持ちの“フタ”を開けてしまったが、その対処が出来ず混沌とした状態の時期、自分でも思いがけなく感情が言葉となって出てしまい、しかし、そのことそのものや、他の人からいただいたフィードバックで好転し、自分にも、他の人とも近くなれた気がしたセッション、そうやって自分がすっきりしてやっと他人のことが見え出した時期、そして、最後のセッションでは、自然に笑顔で、名残惜しいけれどもやることはやったようなすっきりした思いで終わることができたように思います。


他のメンバーも、様々な思いを抱えて参加しておられたかと思いますが、感情の波の進み具合は違えど、最後にはやはり、清々しい顔になられていた印象があります。

 

 

【考察のようなもの】

 

 途中、思いがけず感情を表出してしまったことから、前述の参加直前の「“フタ”をしていた」感情に深く気づき、向き合い、日の目を浴びせた感じがありました。「表出してしまった!」感はありましたが、すっきりし、そしてその感情を、「マイナスのもの」としてではなく、大事な自分のものだと思えるようなフィードバックをしていただいたことにより、ここの所、かなり低下していた自分への肯定感につながったと思います。

 

 最初に書いたように、私は、グループ等で人の話を聴いて色々思うと、すぐに言葉を発してしまったり、早く伝えたい、ほかの人の時間を割きたくないと思ってか、早口になったりするので、他の人がされているような、自分の中の感情や思いをしっかり確かめながら、ゆっくりと言葉を紡いでいくということに憧れがありました。今回もそれを思い参加したようなところもあったからか、セッションの最初の方では、自分の持っているテンポよりもゆっくりと話してみたり、自分の実感にいかにも触れているかのような速度で話したりしていたように思います。


しかし、自分の「人や言葉を大事にしようとしているがまだまだだなあ」という気づきを得た後、逆に、自分のテンポ…速くてもまあ仕方ないやと思いながら自由に話せるようになっていました。


そして、最後のセッションでは、思いを言葉にする経路がそれまでと少し変わり、自分の話で時間をとっていることを余り気にせずに、その時に感じていることを感じているところまで、自分の思いに出来るだけ近い言葉を発しようと、流暢でないまでも自然にゆっくりした話し方になっていたように思います。

 

 セッション中、語られる話や、それに対するフィードバック等を聴きながら、みんなすごい!と何度も思っていました。

自分を語る際や話し手へのフィードバックの際、自分の「思い」や「感じ」を言い表す自分なりの言葉が出てくるくのがすごい、じっくり味わった沈黙の中から生まれてくる言葉やタイミングがすごい、人に対しての思いやりがすごい、つまり、グループがすごい!と。

 

 とても大事な話が語られ、聴かせてもらうということは、自分(達)が信頼されているんだという気持ちになります。そのようなことが複数あることで、自分の大事な話を語ることへの後押しになったり、グループメンバーそれぞれへの信頼感につながるという気がします。


それぞれの「大事な話」は、EGで、このようなセッションの中でしか語れないというわけでもないでしょうが、やはり、セッション外の時とセッションに入った時とは語られる内容や深さが違いますし、それは、語る方も聴く方もそのような「覚悟」というか、「了解」があり、話しやすくなるのかもしれません。もちろん、大事なことを語らなければいけないわけではありませんが、何かそういった事を持って参加している人は多い気がしますし、何よりも、そういったことを語り終えた後は、つき物が落ちたような、すっきりした様子になり、生き生きと過ごせるようになってくる印象があります。


そして、そのような際に、じっくり耳を傾けてもらうことそのもの、さらにそれを聴いた人それぞれの思いから出てくるオリジナルな言葉、あるいは言葉にはならない気持ちが、とても大きな力になったり、そして力になれたという実感の積み重ねで、少しずつ信頼関係と共にグループを「育てて」いき、「かけがえのない自分」「かけがえのない他人」になっていくのかもしれないと感じました。

 


【全体を通しての感想、終えての実感】

 

 セッションの部屋と食堂との間の部屋に、アップライトピアノが1台ありました。

それを使っていいとのことで、セッションの合間や休憩時間に、他の人が弾いているところに伴奏で入ってみたり、伴奏を弾いて、そこに居る人と歌いたい曲を次々に歌ったりと、色々楽しみました。


私は普段、音楽に囲まれて仕事をしているものの、それだからこそ逆に、音楽の良さ、楽しさを新鮮に感じる心が麻痺しているような所があるように思います。また、私の周りの人は音楽が「出来る」人ばかりで、ここのところ自分がピアノを弾くことはほとんどありませんでした。今回、自分の拙い伴奏で、「歌えたことがとても楽しかった」と笑顔を見たり、伝えたいけれども言葉でつたえるのが難しい場合に歌や音楽で伝えられることがあるという、忘れかけていた音楽の力を実感したり、他のメンバーの、「ピアノが弾きたい」という気持ちで一生懸命弾いている音を聴いて暖かく感じたり…と、何と言うか、人が生きる上で大事なものとしての音楽の素敵さ、つまり、私が思う「本当の音楽」というものに少し触れたような気がします。


ここには音楽のことは何も考えずに来ましたが、そういう、音楽と関係のない場だからこそ、そして、自分の感覚がやわらかくなっていくこの場でこそ、改めて、そういえば私はこんな風に音楽と関わりたかったんだ…という、自分の原点を実感できたのかもしれません。

 

そのような色んな気づきや思いから、参加前に自分が、できれば得たいと思っていたことへの直接的な答や後押しではないのですが、自分の大きな課題…達成すべきものとしてではなく、それを大事にするような生き方、選択をして行きたいという、自分の生きる指針のようなもの…を確認できたように思います。


それは、「人・言葉・音楽を大事にしたい」という、言葉にすると単純で、これまでも、そのように在りたいと思ってきたことですが、今回、セッション内外の色んな関わりから、改めて、自分がそれにはまだ遠いということを思い知り、しかし、それをネガティブにとらえるというよりも、一生かけて近づきたい自分の「課題」として、自分の中にしっかり湧き上がってきた大事な思いとなりました。


グループから約3週間たった今、この「生きる指針」に既に何度か助けられています。今までよりもより鮮明になったことで、選択に困った時の判断の基準になったり、自分の方向性を考えるベースとして、今後も支えてくれる気がします。

 

 自分との「出会い」、ファシリテーター・メンバー(具体的なことは書けないのであまり書いていませんが)という、かけがえのない他人との「出会い」、とエンカウンターグループの醍醐味をしっかり味わった、忘れ得ないグループとなりました。


あの、窓から見えた風に吹かれている新緑と、それをみんなで感じながら味わう気持ちの良い沈黙と共に。

 

2011.5.19 北田朋子