2015年

2月

23日

グループというもの その3

過去の文章第3弾です。

 

グループのことを書いたのはとりあえずこれぐらいのはず。

ああ、いい体験をしていたんだなあ…と我ながら。

こんな長文はきっともうなかなか書けないだろうなあ。

 

……

「『私』へのいたわりとしてのグループ・春~人生が喜びとなるように~」感想

 


 2011年4月29日から5月2日まで、「『私』へのいたわりとしてのグループ・春~人生が喜びとなるように~」という3泊4日のエンカウンターグループに参加しました。

会場の「福岡黙想の家」というのは、カトリックの修道院に併設された施設で、かなり広大な敷地内には、森や池もあり、自然を感じながらの散歩や、室内に居ても、窓から風に吹かれている新緑の木々を楽しめる、静かでとても素敵な場所でした。

 

申し込み時の参加動機としては、普段人と話す時、早くたくさんしゃべる傾向にあり、特にグループでその傾向が出た時には、それを我ながら荒っぽく感じたりしていたので、今回は、ゆっくりじっくりと自分の実感に触れて、それに付き合いながら発言をしたり聴いたり、人と丁寧に接したいということがありました。


それから、日程が近くなってきた頃には、自分が、今後の生き方について大きな変化を希望し、ほぼ決断しかけていたので、その「後押し」というか、何かヒントがあれば…という考えもありました。


また、直前の頃には、仕事で色々な出来事があり、自分が、心というか感情に“フタ”をしている気がしており、とにかく、EGまで何とか持ちこたえるぞという気持ちで過ごし、できればそれに光が見えればいいのにという期待等、様々な思いを持ちながら当日を迎えました。

 


【セッションの経過~自分の感情を中心に】


 まず、初日のセッションで、少しずつ話が出始めている時に既に、メンバーへの違和感がないというか、大丈夫だろうなという気持ちと、一人一人の背後にある深さを感じられて、この期間を共に過ごし、知り合っていくことがとても楽しみな気持ちになっていました。単に「気が合うだろう」という感じではなく、そういったことには関係なく、一人一人ときちんと出会えそうな、このグループの一人一人がかけがえなく思えるようになるだろうなという予感のようなものだったように思います。その感じは、より鮮明になりこそすれ、結局最後まで変わることがありませんでした。


これまで参加したグループに、特に違和感を覚えたことはなかったけれど、今回、何故敢えてそう感じたのかはよくわかりません。思い返すと、最初で緊張して、それぞれがそんなに話していないものの、何か、皆さんが自分にまっすぐな感じ、まっすぐで居たい感じがあったのかなあと思います。

 

 計8セッションの間には、感情や、思考の色々な波がありました。

自分の居方や、気持ちの出し具合に試行錯誤な時期、自分の、自覚していなかった気持ちの“フタ”を開けてしまったが、その対処が出来ず混沌とした状態の時期、自分でも思いがけなく感情が言葉となって出てしまい、しかし、そのことそのものや、他の人からいただいたフィードバックで好転し、自分にも、他の人とも近くなれた気がしたセッション、そうやって自分がすっきりしてやっと他人のことが見え出した時期、そして、最後のセッションでは、自然に笑顔で、名残惜しいけれどもやることはやったようなすっきりした思いで終わることができたように思います。


他のメンバーも、様々な思いを抱えて参加しておられたかと思いますが、感情の波の進み具合は違えど、最後にはやはり、清々しい顔になられていた印象があります。

 

 

【考察のようなもの】

 

 途中、思いがけず感情を表出してしまったことから、前述の参加直前の「“フタ”をしていた」感情に深く気づき、向き合い、日の目を浴びせた感じがありました。「表出してしまった!」感はありましたが、すっきりし、そしてその感情を、「マイナスのもの」としてではなく、大事な自分のものだと思えるようなフィードバックをしていただいたことにより、ここの所、かなり低下していた自分への肯定感につながったと思います。

 

 最初に書いたように、私は、グループ等で人の話を聴いて色々思うと、すぐに言葉を発してしまったり、早く伝えたい、ほかの人の時間を割きたくないと思ってか、早口になったりするので、他の人がされているような、自分の中の感情や思いをしっかり確かめながら、ゆっくりと言葉を紡いでいくということに憧れがありました。今回もそれを思い参加したようなところもあったからか、セッションの最初の方では、自分の持っているテンポよりもゆっくりと話してみたり、自分の実感にいかにも触れているかのような速度で話したりしていたように思います。


しかし、自分の「人や言葉を大事にしようとしているがまだまだだなあ」という気づきを得た後、逆に、自分のテンポ…速くてもまあ仕方ないやと思いながら自由に話せるようになっていました。


そして、最後のセッションでは、思いを言葉にする経路がそれまでと少し変わり、自分の話で時間をとっていることを余り気にせずに、その時に感じていることを感じているところまで、自分の思いに出来るだけ近い言葉を発しようと、流暢でないまでも自然にゆっくりした話し方になっていたように思います。

 

 セッション中、語られる話や、それに対するフィードバック等を聴きながら、みんなすごい!と何度も思っていました。

自分を語る際や話し手へのフィードバックの際、自分の「思い」や「感じ」を言い表す自分なりの言葉が出てくるくのがすごい、じっくり味わった沈黙の中から生まれてくる言葉やタイミングがすごい、人に対しての思いやりがすごい、つまり、グループがすごい!と。

 

 とても大事な話が語られ、聴かせてもらうということは、自分(達)が信頼されているんだという気持ちになります。そのようなことが複数あることで、自分の大事な話を語ることへの後押しになったり、グループメンバーそれぞれへの信頼感につながるという気がします。


それぞれの「大事な話」は、EGで、このようなセッションの中でしか語れないというわけでもないでしょうが、やはり、セッション外の時とセッションに入った時とは語られる内容や深さが違いますし、それは、語る方も聴く方もそのような「覚悟」というか、「了解」があり、話しやすくなるのかもしれません。もちろん、大事なことを語らなければいけないわけではありませんが、何かそういった事を持って参加している人は多い気がしますし、何よりも、そういったことを語り終えた後は、つき物が落ちたような、すっきりした様子になり、生き生きと過ごせるようになってくる印象があります。


そして、そのような際に、じっくり耳を傾けてもらうことそのもの、さらにそれを聴いた人それぞれの思いから出てくるオリジナルな言葉、あるいは言葉にはならない気持ちが、とても大きな力になったり、そして力になれたという実感の積み重ねで、少しずつ信頼関係と共にグループを「育てて」いき、「かけがえのない自分」「かけがえのない他人」になっていくのかもしれないと感じました。

 


【全体を通しての感想、終えての実感】

 

 セッションの部屋と食堂との間の部屋に、アップライトピアノが1台ありました。

それを使っていいとのことで、セッションの合間や休憩時間に、他の人が弾いているところに伴奏で入ってみたり、伴奏を弾いて、そこに居る人と歌いたい曲を次々に歌ったりと、色々楽しみました。


私は普段、音楽に囲まれて仕事をしているものの、それだからこそ逆に、音楽の良さ、楽しさを新鮮に感じる心が麻痺しているような所があるように思います。また、私の周りの人は音楽が「出来る」人ばかりで、ここのところ自分がピアノを弾くことはほとんどありませんでした。今回、自分の拙い伴奏で、「歌えたことがとても楽しかった」と笑顔を見たり、伝えたいけれども言葉でつたえるのが難しい場合に歌や音楽で伝えられることがあるという、忘れかけていた音楽の力を実感したり、他のメンバーの、「ピアノが弾きたい」という気持ちで一生懸命弾いている音を聴いて暖かく感じたり…と、何と言うか、人が生きる上で大事なものとしての音楽の素敵さ、つまり、私が思う「本当の音楽」というものに少し触れたような気がします。


ここには音楽のことは何も考えずに来ましたが、そういう、音楽と関係のない場だからこそ、そして、自分の感覚がやわらかくなっていくこの場でこそ、改めて、そういえば私はこんな風に音楽と関わりたかったんだ…という、自分の原点を実感できたのかもしれません。

 

そのような色んな気づきや思いから、参加前に自分が、できれば得たいと思っていたことへの直接的な答や後押しではないのですが、自分の大きな課題…達成すべきものとしてではなく、それを大事にするような生き方、選択をして行きたいという、自分の生きる指針のようなもの…を確認できたように思います。


それは、「人・言葉・音楽を大事にしたい」という、言葉にすると単純で、これまでも、そのように在りたいと思ってきたことですが、今回、セッション内外の色んな関わりから、改めて、自分がそれにはまだ遠いということを思い知り、しかし、それをネガティブにとらえるというよりも、一生かけて近づきたい自分の「課題」として、自分の中にしっかり湧き上がってきた大事な思いとなりました。


グループから約3週間たった今、この「生きる指針」に既に何度か助けられています。今までよりもより鮮明になったことで、選択に困った時の判断の基準になったり、自分の方向性を考えるベースとして、今後も支えてくれる気がします。

 

 自分との「出会い」、ファシリテーター・メンバー(具体的なことは書けないのであまり書いていませんが)という、かけがえのない他人との「出会い」、とエンカウンターグループの醍醐味をしっかり味わった、忘れ得ないグループとなりました。


あの、窓から見えた風に吹かれている新緑と、それをみんなで感じながら味わう気持ちの良い沈黙と共に。

 

2011.5.19 北田朋子

 

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2015年

2月

23日

グループというもの その2

その1の続きです。

いやあ、久しぶりに読むとなんだか熱くなる…。

 

 

……

 

【九重エンカウンターグループのこと 2.九重での経験】


《グループについて》

 思い返してみると、ファシリテーター・メンバー、10人すべての人たちを、心から尊敬できるような、そんなグループでした。年齢は年下年上ともに幅広いけれど、そのすべてです。

そして、特に前半は「爆笑グループ」という異名をもらうほど、笑いにあふれたグループでした。結構遠いところでやっていたグループにまで、笑い声が聞こえていたらしい…。

浅く~深くまで、それぞれが色々な話をし、聴き、応えました。そこで話された内容は書けないけれど、自分のことを少し。

 

 私は、今回は、今の自分の仕事について、出来れば話したい、聴いてもらいたいと思っていました。今現在、生活が仕事中心になっていて、自分がその価値観のみの中に沈んでしまいそうな危機感があったので、何か、違う視点をいただければ…と思ったのが主な理由です。

とはいえ、流れを変えてまで無理に話すつもりはなかったのですが、何となくそれを言いたい流れになった時、まとまらないながらも話しました。


結果的には、割と時間を多くさいてもらい、様々な人たちからそれぞれの言葉で、本当に色んな観点からのフィードバックをいただきました。


解決はしないことでも、共感してもらえたり、違う立場からの意見がもらえたり、自分の価値観を支持してもらえたり、何よりも、自分の問題なのに、他人がこんなに一生懸命考えてくれているということにとてもうれしく、申し訳なく思ったくらいです。そんな中で、自分への気づき(自己肯定や“個性”の発見など)や、自分の周りの人への気づき(信頼できる人たちと働けている貴重さなど)など、ありがたい発見がたくさんありました。

それら、色んな話をした上での「○○(私)流でいけばいいやん」「PCA(パーソン・センタード・アプローチ)に何故興味があるのかが良くわかったよ」という言葉たちは、自分の今後の歩き方にとても勇気をもらったような気がします。

 

 それから、日程の最後の方で、話すつもりがなかったことも、ポロっと口から出て、自分でも少し驚きました。


自分の深い所からのことは、よっぽどの信頼関係がなくては言いにくいし、かといって普段の人間関係の中では言いにくいこともあります。しかし、安心出来る(と自分では実感した)こういう場で話すことで、やはり楽になることもあるんだなあと思いました。我ながら予期していなかったので、あまり深く入り込むのは避けた言い方になってしまったのですが。

 

メンバーみんながそれぞれの持っていることに関して話をし、みんなでそれをある程度深めるようなグループだったなと思います。毎回さんざん顔を合わしていても、グループの時間になるのはいつも楽しみだったし、食事やセッション後の飲み会の時も、同じグループの人と会うとうれしかったり、安心したり、「仲間」という感覚になりました。

今、思い返しても、10名全員もれることなく一度に思い出せます。


グループで出た話題や発言は、みんなとても貴重で、忘れていくのが本当にもったいないです。でも、何かが自分の中にじわっと広がって残り、自分の行く道を暖めてくれるような、そんな気がしています。

 

《全体について感じたこと》


 スタッフ・メンバー、色んな方々の優しさが、目に見えるところ、見えないところに満ちていました。

この「優しさ」は、私が今回一番感じたことでした。


みんなが無理なく居心地よく過ごせるために、様々な工夫をされていたスタッフの方々、メンバーという参加でありながらも、みんなのためにケーキや様々なお料理を作ってきたり、お酒を持ってきた人たち、もくもくと雪かきをしていた人たち、参加していないのに、色々なものをわざわざ送って来てくれた過去の参加者の方…。

「優しさ」の押し売りではなく、ここでの出会いを本当に大切に思い、自分が心からしたいと思って人に優しくするということ、それで喜んでくれてさらにうれしくなるということ、そしてまた優しくする…という、いい循環が至る所にありました。

私は、その「やさしさ」に気づけたことや、全く気づいていず、後で知ったことなど色々で、特に、後で知ったことなどは、それに気づいていなかった自分の浮つきを、大いに反省し、逆に凹んでしまいました。

 

そう、私は、この期間、何か浮ついていて、自分のことばかり考えていたように思います。

自分がいい経験を出来るだろうか、自分が居心地良く過ごせるだろうか等々…。初参加だからとも思いますが、何か周りが見えていないところが多かったなあと思いました。

しかし、これはグループでも話したのですが、私にとっては、今回は心から「あー楽しかった!」と言える体験でした。


何を「楽しい」と感じるか、それは、本当に人それぞれだと思います。それを、例えば、音楽療法ならば、クライエントさんが、いわゆる「重い障がい」を持っていてもどんな相手でも、「この人の『あー楽しい』と思えるのは何かな」というものを探りつつ見極めつつ、音楽でそれを実現の方向に持っていくという風にも言えるのではないかと思います。私にとって、このエンカウンターグループは、そんな体験の一つだったなと思います。

泣いたり笑ったり、色んな感情を体験したけれど、そんなことをひっくるめて。

グループ内、グループ外、行き帰りひっくるめて。

そうか。まずは、「自分」からかな。そこから周りの人にもっと目を向けられるようになれればと思います。

 

 こういうのに参加すると、九州、それも福岡周辺在住の人が多く、「月例会」というのもあるそうで、「この人たちは、普段でも会おうと思えば会えるんだなあ、いいなあ」と、遠くを憧れる気持ちにどうしてもなってしまいます。そんな気持ちも持ちつつ京都に帰って、仕事がたまっていることを覚悟しながら職場の机に行くと、小さなプレゼントが2つありました。私達をいつも気遣ってくれる年上の講師の先生と、音楽院の同期で講師もしている友人からのクリスマスのお菓子でした。そして、職場の後輩には、居ない間に仕事をたくさん負わせてしまったにも関わらず、私が行きたがっていた九重に行けることになり、本当に喜んでくれていました。九重で、「優しさ」に触れ、それに憧れつつ帰ってきたのですが、そのお手本が、こんな近くにもあったのです。


いつも、このような遠くに行って良い体験をさせてもらい、心から楽しかった後に、「遠くの憧れに近づくには、案外と近くを大切にすることなのかもなあ」ということを感じるのですが、今回は特にそれを感じました。そんな、「近くの大切さ」は、普段は当たり前のように見過ごしてしまうこともあり、「遠くの憧れ」は、それに気づかせてくれる場所でもあるのだなあと思います。

 

 いいことばっかり書いていますね。人でも場所でも、良い所ばかりでなく、悪い所もあるはず…といつも私は意地悪く分析するのですが、今のところエンカウンターグループに関しては悪い所を見つけ出せていません。「恋は盲目」って感じですかね。

 

【これから】

 「エンカウンターグループ」というものにお金や時間をかけて参加して、それでどうするんだ?何につながるんだ?という身もフタもない意見も自分の中にありますが、とりあえず今は行けるものには参加したいなあと思っています。


あそこでの色んな出会いと、そこで起こる色んなことにとても興味があること、自分の精神的健康を保つのに一役買ってくれていること、何よりも、楽しいと自分が思えること…。

今は完全に自分のためですが、そうやっているうちに何か他人にも役に立つような自分を創ることにつながっていけばうれしいなあと、少し欲も持ちつつ、この「出会い」を大切にしていきたいなと思います。

 

載せてもらったブログ→「えみそら♪」ほっこり日記 2011年1月14日・15日

http://blog.goo.ne.jp/re-misora


北田 朋子

      2011.1.10

 

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2015年

2月

23日

グループというもの その1

過去の文章第一弾です。

2011年の年始に書いたものです。

だいぶ過去になってしまいましたが、友人のえみそら♪さんたちのブログに載せるよ~とのことで、自分がしたワクワクした体験を人に伝えようとがんばって書いた覚えがあります。

結局、これは、人生を変えるような(つまり大学院進学の)きっかけになりました。

 

……

《九重エンカウンターグループ体験記》


 12/23-27に大分県の九重という所であった「九重エンカウンターグループ」に参加してきました。


【エンカウンターグループって?】


 まずこの「エンカウンター(出会い)グループ」とは何ぞやということですが、アメリカの心理学者、カール・ロジャーズが、カウンセラーの訓練をきっかけに始めたグループ体験らしいですが、その後、特に「カウンセラーの訓練」に限らず、「人間の心理的成長と対人関係のコミュニケーションの発展」を目指して行われています(たぶん)。あ、「たぶん」というのは、定義としてはそんな感じですが、各々が違うことを目指したり、違う体験をしていいんだというのが、一つの特徴でもあるように思うからです。


具体的にどんなんかというと、メンバーとファシリテーターで10名くらいのグループを作ります。(「ファシリテーター」というのは「促進者」という意味で、臨床心理士など何らかのそれ系の専門家がされることが多いようですが、「リーダー」とか「先生」とかいう立場ではなく、メンバーと同じ目の高さで、かつ、(密かに)とっても気や目を配ってる人です。)

そして、人数や形態は色んな場合がありますが、今回の九重の場合は、ファシリテーター2名を含む10名で、畳の部屋で円になって座ります。真ん中には、ミカン、バナナから、さまざまなお菓子、おいしいコーヒーや紅茶などの飲み物がたっぷりあり、自由にそれを飲み食いしながら、「セッション」と呼ばれる時間を共に過ごします。


セッションの時間は、基本的には何をしても自由ですが、まあ、みんなで話したり聴いたりしています


今回は4泊5日で、計11セッション有り、大学院生から、現役で仕事をしている世代、引退したり、自分で仕事をされている方々、など、老若男女様々な参加者から成るグループでした。



 説明というと、ほんと、これくらいなのです。

「なんじゃそれ?」って感じでしょ?



 この経験や良さを説明するのが難しく、いつも(といってもまだ2、3回しか経験してないけど)「心理学のワークシヨップだよ」とざくっと説明していたのですが、「壺買わされるんちゃう?」「どんなことすんの?」「洗脳されるんちゃう?」など、もっともな(!?)ギモンを友人からよくいただき、一度ちゃんと文章にしてみようと思いたったわけです。


【グループの雰囲気・得るもの】


 ほとんど初対面の人たちと円になり、さて…となると、シーンとしたり、雑談したりします。(今回は、世界の歴史から排泄物についてまで、まあ~話題が豊富でした。)

そんな所から始まるのですが、色々な話をしたり、それに共感やフィードバックをもらったり、人の話をじっくり聴いたり、自分や人の考えていることに思いをめぐらしたりしているうちに、徐々に関係性が深まってくるのか、だんだん、普段はあまり話せないような、自分の大事な、深い話が自分から自然に出て来たり、感覚がやわらかくなるのか、人の話を聴いて、ぽろぽろと泣いてしまったり…と色んなことがおこります。


最後には、そのグループの一人一人が、大事な「かけがえのない存在」としてそこに居ることを実感し、つまり、自分の「かけがえのなさ」も実感したりします(私の感想ですが)。

それとか、ファシリテーターの人たちは、いわゆる「エラい先生」だったり、メンバーも良く聞いてみると何がしかのエラいさんだったりすることもあるのですが、そういう上下関係のない、本当に「人間同士のヨコの関係」として、その場を体験することは、自分が「エラい立場」でも「エラくない立場」でも、本当に大事なことを確認できる場かもしれないなあと思います。


今まで私の経験したグループは、いずれも割合に「平和な」雰囲気だったなあと思いますが、進行していく中で、否定的な感情がガンガンと出たり、何かターゲットとなってしまう人が出てきたり(スケープゴート現象というようです)、色々おこることもあるようです。


ですが、「基本的には何をしてもいい」ので、しんどくなったらグループを離れても良いし、そのグループの中で爆発しても良いし、ファシリテーターに相談しても良いし、「自分の心の声に従ってみる」のが良しとされていると思います。そうこうしているうちに、結局良い方向に向かっていくような印象があります。もしかしたら、ファシリさんが見えない努力をされてるのかもしれませんが…。


また、同じ場を共有しているとはいえ、年齢・性別・境遇・性格など、様々ですので、結果的に「ここがよかった!」と言えるものが同じではありません。


私の印象では、

 ・自分の問題に新たな視点をもらい楽になった

 ・自分の問題が、色々と語るうちに明らかになった

 ・自分のかけがえなさが実感できた

 ・人と、心から交流する体験ができた

 ・自分の問題に共感してもらい孤独感がぬぐえた

 ・ファシリテーターの勉強になった

 ・自分をゆっくりみつめられた


 など、それぞれ自分の内なるプロセスや結果は色々です。

その「色々」さが尊重されているところがいいなあと思います。

「○○を得ました!」「自分がこのように成長しました!」なんて確固としたものがなくてもいいということです。

グループ単位でも、セッションが進んでいく上で、盛り上がって仲良くなるグループや、バラバラな感じでいくグループなど様々ですが、どんなんでもOKということです。

みんなで仲良く盛り上がればいいってものでもなく、バラバラで悪いというわけでもなく、盛り上がってるように見えても、無理してる人がいないか気をつけないといけないし、バラバラに見えてもみんなが居心地よければいいしということかと思います。

私のグループのファシリテーターだった、M先生がそのようなことを何度もおっしゃってました。(ああ、このM先生だけは、どうしても「先生」とつけたくなってしまう…。本当に、エラいのにエラそうではない、すごい先生です。)セッションを重ねるごとに、少しずつ関係性が深まっていき、同じような話題でも、日程の最初の方と最後の方では深まり方が違ってきます。普段の人間関係にもそういうことがありますが、それを短期間で体験するような感じです。


【九重エンカウンターグループのこと 1.九重に至るまでの私】


 九重は、この「エンカウンターグループ」のメッカとも言われており(約40年続けられています)、計4グループ、ファシリテーター9名、総勢43名の大所帯で5日間を過ごしました。私は、キャンセル待ちで、どうもホントにギリギリに入れたようで、もう来年の予約をしている人もたくさん居ます(来年が最後なのです)。なので、リピーターの方が多く、新参者の私としては、どんな感じだろう…とおそるおそるの部分もあったのですが、新参者を排除する感じや、逆に気をつかわれ過ぎる感じは全くなく、普通に一員として過ごすことが出来ました。


あ、そもそも、何故私がこれに参加しようと思ったかということも記しておきます。もともと心理学に興味があり(というか、大学は心理学科卒。あんまし勉強してないけど…汗)、そこから音楽院で音楽療法を学び、その方向に進んだわけですが、音楽療法の臨床経験はそんなに多くなく、近年は、仕事の内容もあり、もっぱら「音楽療法を学びたい人」に興味を持っていたわけです。そんな中で、色んな人と接したり、考えたりしているうちに、いくつかの興味がしぼられてきました。


・音楽療法士の「感性化トレーニング」をどうすれば習得できるのか?

 …音楽療法士の岡崎香奈さんが音楽療法教育における「感性化トレーニング」についての文章を書いておられ、知った言葉なんだけれど、私の解釈としては、「音楽療法士が、知識や技術以前に持っておくことが前提の、対人関係における自分や他人への気づきとその存在の仕方」かととらえています。それって「持って生まれたもの」なのか「学べる」のか。学べるとすれば、どのように学べるのか…?という興味。


・グループダイナミクスをどう学ぶ?

 …音楽療法を学ぶ人たちは、講師からだけではなく、同期生などヨコのつながりで学べることがとても大きく貴重であるなあと感じていました。そんなヨコの関係を意識的に大事に育てる方法はあるのか?それから、音楽療法の中で、クライエントが集団の場合も多く、私としては、その場合の、セラピスト-クライエント関係だけではなく、クライエント-クライエント関係が気になり、それをどう意識するのか?どう学べるのか?という興味。


そんなことを、まあそれほど意識化していたわけではないですが、少し考えていたわけです。とはいえ、結構ぼーっと過ごしていた時期が長いのですが、その中でも、全く別分野の友人の影響で、哲学や心理学関係の本(ごく簡単な)やちょっと小難しげな、今まであまり手にとってなかった本を、少しずつ読んだり話したりして、結構おもしろいやんと、「小難しい本」=「勉強」のおもしろさをちょっとずつ知るようになっていました。


それと平行するように、仕事で、長崎県の離島「小値賀島」に何度か行かせていただきました。ここでは、心理学関係のことは一切関係ないのですが、この島での色んな出会いが、自分をとても後押ししてくれる結果となりました。


そして、2009年、私が音楽院の学生時代(1997年)に、臨床心理学を教えていただいていた先生が、九州の大学に行かれてから、ほとんどお会いすることもなく、どうしてはるかな…と、ふと、ネットで検索してみたのです。その先生は、トライアスロンをされるので、それらの順位のページなどが連なり、苦笑しながら見ていたのですが、その中に乗鞍で行われるエンカウンターグループのHPを見つけました。その先生がファシリテーターをされるということで、名前が載っていました。「エンカウンターグループって何だっけ?」と、昔少し聞いたことがあるだけの言葉を不審気に眺めていたのですが、何となく気になり、案内を熟読するも、やっぱり怪しそうで、閉じ、そのまま何ヶ月か忘れていました。

が、何ヵ月後かに、再度そのページを検索して開いてみました。

その何ヶ月かの間に、母が入院・手術・回復して「もう、これからはやりたいことをやるねん。あんたもな。」という言葉をしみじみ漏らしたこと、ピアノや歌を教えている友人の、中高年の生徒さんの発表会ライブで、心から楽しく音楽でお手伝いをさせてもらった「ギャラ」を、あの人たちに恥じないように有効に使いたい!と思っていたこと、30代最後の年やしな~ということ、小値賀に再度行き、パワーをもらったことなど、様々な「後押し」が重なり、そして、「まあ、よっぽどヘンなとこでも、先生に久しぶりに会いに行くと思えばいいか~」という自分への説明も立ち、エイっとばかり申し込んだのでした。(これまたギリギリセーフだったらしい)


乗鞍に行って、前述のような体験をし、終わってみれば、自分の考えてたことの答えの一つがこれやん!というびっくり、それから、自分や人のことを真剣に考えて話し、聴くという、私がやりたい、やっていることをこんな風にしている場所があるんや!という「水を得た魚のような」うれしさ、「ここに音楽があれば…」という、思ってもみなかった音楽療法への気づきなど、39歳にして、目を開かされた大事な経験となりました。


それから、ロジャーズ関係の本を読んだり、ファシリテーターをされる人たちの書いた本を読んだり、沖縄での「スローエンカウンターグループ」に参加したり、日本人間性心理学会の大会に参加してみたり…そして、読んだり聞いたりしてるうちに、一度は行きたいと思うようになっていた「九重エンカウンターグループ」に何とか参加することができたのでした。

                                        (つづく)


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2015年

2月

23日

ブログもぼちぼちやろうかな

ひっそりと開設していたこの覚え書き的ホームページですが、なんだかニーズも出てきたので、そろそろブログもやろうかなと思っています。

とりあえずは、過去に書いた文章をアップするところからかもですが。


よろしくお願いします。

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